昭和生まれの私が語る自己紹介

私のおいたちと祖父母の人生。~昭和を生きた祖父母の人生に敬意を表して~

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introduction

私は時々、祖母と祖父の事を思って寝られなくなることがある。とても可愛がってもらったし、とても苦労してきた二人の人生を思うと胸が締め付けられて涙が出そうになる。私の自己紹介も兼ねて、昭和から平成に生きた2人の事も書いてみたい。2人が居たから今がある。感謝せずには居られません。昭和後期に生まれた私の育った環境も含めて書いていくので長くなります。

私の子供のころ

地方の県庁所在地から、20キロほど離れた里山が私の実家です。田舎なんだけど、割と近いところに地方都市がある、そんな所。

山間部から流れてきた大きな川が、平野を広げ始める所で、綺麗な水でのお米作りが盛んなところです。当時は家の裏に流れる川は、土手でできていて、沢蟹がいたり、カメが泳いでいました。今では、コンクリートの川になっていて、生き物が見られなくなりました。

野原を駆け巡って、川で遊んで、虫を捕まえて、おてんばに遊んでいました。ファミリーコンピューターが発売されて、熱中する兄を横目に、外で遊ぶのが大好きでした。

当時はお風呂はタイル張りで、お湯を薪を焚いて沸かしていました。兄と二人で、台所の横にある窯に薪をくべていました。

ある日、兄が火箸を振り回して、私の顔にやけどをさせたことをきっかけに、石油でお湯を沸かすタイプにリフォームしました。水道はあったけど、井戸水も使います。台所はプロパンガスのコンロを使っていて、ガスが無くなったと言ってはプロパンの交換をしていました。

昭和53年に生まれた私。昭和後期の私の育った環境はこんな感じでした。

私を育てた家族

祖父母、両親、兄、私の6人家族が1つの家に暮らしていました。父の弟のおじさんも、結婚するまでは一緒に住んでいました。

2階部分で両親が寝て、1階部分で祖父母が寝て。台所とお風呂を共有していました。家の裏には、祖父母の内職小屋があって、日中は祖父母はそこで仕事をしたり、近くの空き地で畑仕事をしていました。田んぼ所有していませんでした。

両親は共働きで、近くの県庁所在地に働きに出ていました。出産前後の産休がとても短い時代で、母は産後2週間ほどで祖父母に赤ちゃんを預けて働きに行っていました。私にとって、母はいつも外出していて、会えるのは朝と夜のしばらくの間だけでした。母は電車で職場に通っていました。夕方になると、自転車に乗って駅まで迎えに行くと、スーパーの袋を持った母が電車から降りてきました。

母も苦労したらしく。私に苦労話を聞かせてきます。「夜も祖父母に見てもらったら、母親で居られなくなるから。夜泣きをする赤ちゃんをおんぶして、夜中に近所を散歩していた」「仕事が終わってから、家事をしていると、子供と過ごせる時間がとても少なくて。夕食後に皿洗いをしている傍らで、子供たちが祖父母と団欒しているのを見るのは辛かった」

大変だったんだろうなって思います。でも、母はまだ健在なので美しい思い出には塗り替えられていません。私は心の中で反論します。「でもね、私も嫁姑の間に挟まれて、家族の関係をバランス良く保とうと、子供ながらに辛かったんだよ」って。小さなころに、おばあちゃんと寝るのか、お母さんと寝るのかって議論になって、階段の真ん中で大泣きしていたのが記憶に残っています。どちらにも愛されたいけど、どちらかを選べと言う2人の狭間で「ごめんなさーい!!」と大声で泣いていました。基本は2階で両親と寝ていたけど、時々おばあちゃんと1階で寝ていました。あの時の、せつなくて悲しい気持ちはまだ覚えています。

私と母は元気だから、まだ美しい思い出にはならないんですよね。思春期は母とよくぶつかっていて、今でも思春期終わってないんじゃないかと言うような間柄です。しっかりしていて厳しいんですよね。私も、もしかしたら甘えたりていないのかもしれない。

父は、美男子で優しくて、賢くて、面白くて大好きです。テレビで、娘さんを不幸にも亡くしてしまったニュースを見るたびに、「もし、お前が殺されたなら、お父さんは犯人を必ず殺して敵を討ってやるからな。安心しろ。」そんな事を、冗談なのか本気なのか、芝居がかった口調で言ってきます。おかしいような、怖いような、愛されているような…。うん、愛されているんだろうなってそんな気持ちになります。

そういったかと思えば、父の夢は「よぼよぼになって『お父さん、これお小遣いよ』って娘からお小遣いをもらうこと」だそうで、面白いです。まだ、お小遣いはあげたことありません。彼は早期退職して、起業し、自営で収入を得る働くおじいちゃんです。

人の数だけドラマがあるから、それぞれの苦労があるんだと思います。そんな中で、祖父母にクローズアップさせて行きます。

祖父との思いでと最後

おじいちゃんとの時間

ハイカラで、賢く、厳しく、お酒と遊びが大好きなおじいちゃんでした。事業に失敗して、早くリタイヤして、内職をしながら孫育てをしていました。

私は2年保育で、保育園に入るまでは、おじいちゃんたちの内職小屋で過ごしていました。保育園に入ると送迎もおじいちゃんでした。授業参観にはおじいちゃんが来ていました。運動会とお遊戯会は両親が来ていました。だから、幼少期は祖父母といる時間がかなり長かったんです。小さな私が病気になると、吐いた物がかからないようにと肩の部分にタオルをかけて、おぶって自転車に乗って病院に連れていってくれた記憶があります。

家の裏で、マッチに火をつけて草を燃やしてみようとしていたら、ひどく怒られました。脇に抱えられて、お尻を叩かれて「ごめんなさーい」と泣きました。

最初は軽トラ、次は軽ワゴン車に乗っていて、私を助手席にのせてよく出かけました。おじいちゃんの盆栽の会、山歩き、スーパーマーケット、いとこのお家。小さないとこは、軽トラがカッコよく見えたらしく、おじいちゃんの大ファンだったそうです。小学校のときは、忘れ物をすると学校の公衆電話から電話して持ってきてもらいました。

いつも、食卓でテレビを見てお酒を飲んでいて、一緒に時代劇を見ました。「鬼平犯科帳」が大好きでした。政治や世界情勢についても、ニュースを見てわかりやすく教えてくれました。

私が成長して、ブラジャーを付けるようになった時、「チチバンドしてるんか?」って真面目な顔で聞いてきて。「そうや」って言うと。複雑な顔で「そうか…。」と納得していました。聞かれた私は、不思議とイヤではなくて、ホントに意外だったんだろうなって思いました。頭の中はいつまでも可愛い女の子なんだろうなって。

おじいちゃんの子は男ばかりの3人兄弟だから、孫の女の子が可愛かったんだろうなって思います。赤ちゃんの私をお風呂に入れて、餅のように白くて柔らかいと感動していたらしいです。

私が成人した後も元気で、9.11で飛行機がビルに突入した時も、一緒にテレビを見ていました。「とんでもないことが起こっている」と2人で困惑していました。

たくさんの思い出があります。

おじいちゃんの最後

脳溢血を繰り返して、徐々に言葉を失いました。でも、体は元気で気力もありました。老人用のワークブックをお土産に買って帰ると、喜んで取り組んでいました。孔子の詞をなぞり書きしていました。

睡眠薬でフラフラになって、倒れそうなのを抱えた時もありました。

噛めなくなって、流動食になり、おかゆと煮物のすり潰したものを食べるようになりました。私も、食事にとろみを付けたりして手伝いました。そのうち食べられなくなって、胃に直接、栄養を流していました。

それでも、トイレには自分で頑張って行って、オムツと並行して暮らしていたのですが、ある日、大量のうんちで体中が汚れてしまいました。ベットまで汚れていました。

少しボケ始めていた祖母は対処できずに、私を呼びました。私は、やせこけたおじいちゃんの手を引いて風呂場へ行き、シャワーで洗いました。冬だったので寒くて、バスタブにお湯を張りながら、掃除が終わるまでここで温まるように言いいました。廊下に着いた足跡を掃除していたら、両親が帰って来て、父はベットを綺麗にしました。私はおじいちゃんに洋服を着せました。

このことがあってから、両親はおじちゃんを完全入院させることを決意しました。

当時28歳の私は、仕事帰りに病院に時々お見舞いに行くようになりました。しゃべれないから、私が一方的に話をして、目の動きやジェスチャーで返事をするというようなやり取りをしました。私が婚約して、結納したこと。自宅の新築計画が進んでいる事を話しました。

「自宅の新築は楽しみ?帰ってみたい?」と聞くと、悲しい顔をしました。庭を自分で手作りしていたから、そこが無くなるのが悲しいんだとピントきて、「庭が無くなるのが寂しいの?」と聞いてみるとうなずきました。「お庭を残してほしい?」と聞くと、首を振りました。このままの設計で良いと。

後の世代が決めれば良いと、あきらめと、譲る潔さと強さを感じました。

肺炎になって、危篤状態という事で家族全員が病院に集まりました。丸く綺麗に光るおじいちゃんの目を見て「痛いところはないか、辛くはないか」と聞いたら、「無い」と首を振りました。そして、「そばにいた方が良いか?」と聞くと、「居なくていい」と。そして、大丈夫そうだねってなって、全員がいったん帰りました。そして、数時間後に家族に看取られることなく死んでしまいました。

どうしてこの時、全員が帰ったのか、とても不思議です。交代で誰かが居るってことも出来ただろうになって思ってしまうのです。

おじいちゃんが亡くなってから、不思議な体験を何回かしていて、見守ってくれているような気がしています。

おばあちゃんとの思いでと最後

おばあちゃんとの時間

おばあちゃんは、いつも家にいました。私は学校から帰ると「おばあちゃんはどこ?」っておじいちゃんに聞くものだから、おじいちゃんはおばあちゃんに嫉妬していたようです。

お弁当を持って、近くの河原に2人でピクニックに行きました。おばあちゃんが可愛いと喜ぶだろうと思って入れた、ピンクの桜でんぶが美味しくなくて、二人ともがっかりしたのを覚えています。

学校から帰ると、梨をむいてくれて、丸かじりをしてみなさいと言われてガブガブと美味しく食べました。

飼い猫が、私の洋服の上で、野ネズミを食べて、血が付いた上に肝だけが残っていて。ショックを受けていたら、「飼い主に手柄を見せたかったんだよ。」って言って、血で汚れた洋服を洗ってくれました。「血は水で洗った方が良く落ちるから」とも教えてくれました。

お盆前には、仏具を外して、磨き粉を付けた布で一緒に綺麗に磨きました。お盆には、ご先祖様が帰ってくるから、綺麗にしようねって。

お風呂上りに、シワシワになった皮膚をつまんで、私に見せながら「年をとったらひどいもんだ」って嘆いていました。

年の割には、コロッケとか洋風な料理に挑戦して食べさせてくれました。後に、叔母が「孫に食べさせたい」と言って作っていたんだと教えてくれました。

自分の若い時の辛い話をしてくれました。その話も、きっと苦労の一部なんだろうな、もっとあったんだろうなって思います。

弱いところもある、愛情あふれたおばあちゃんでした。

私が2人目を出産した時まで実家にいましたが、ボケて、下の世話が自分ではできなくなったことで、最後は老人ホームに入りました。

おばあちゃんの最後

子供を連れて、数回、会いに行きました。しかし、老人ホームの雰囲気に負けて、子供を連れて行くのはやめてしまいました。

面会に行ったときに、私のバックを見て、とても良いおしゃれな鞄だと褒めてくれました。「わかる?」「うん、わかる(笑)」って。とてもボケているようには見えない会話でした。

ある日、久しぶりに会いに行くと、とても顔が浮腫んでて、薬で寝むっていて様子がおかしくなっていました。そこから、個室に移り、最後の時を迎えることになりました。

2歳と1歳の子供たちを自宅で見ていたので、旦那さんがいるときを見計らってお見舞いに行きました。ほんの1時間未満の間、側にいる事しかできませんでした。

行くと、ハッと正気を戻すときがあって、「お父さんを呼んで」「私、死んでまう」そう言いました。どう返したらいいのか…。「そんな悲しい事、言わんといてよ」と言いました。

一緒にいると、職員の人がオムツを変えに来てくれます。そして、ただ、見舞いに来た私に「ありがとうございます」と言ってくれます。こちらこそ、自分でお世話ができなくて、してもらっているのに申し訳ないです。どちらが家族か分かりませんね。

おばあちゃんは、たくさんの人に愛情を注いで育ててきた人だから、「ありがとう、ばあちゃんには本当に世話になったね。何もしてあげられなくてごめんね。」っそう繰り返して全身をさすって撫でました。

出来ることは、それだけでした。そして、「小さい子が待っているから、帰るね」って離れるしかありませんでした。

祖父母の人生

昭和の時代を生き、第二次世界大戦を経験している人の人生は、言葉にできない物を抱えている気がします。祖母が語った、人生を思うととても胸が締め付けられます。

連れ子同士で出会った祖父母

おじいちゃんは4人兄弟でした。しかし、母が亡くなり、おばあちゃんを連れた継母がきました。お互いに配偶者が早くに亡くなった者同士が結婚したのです。兄弟5人で育ち、そのうちに弟1人と妹2人が生まれました。

しかし、村を疫病が襲ったのです。村を通る道が閉鎖されるほどの流行り具合で、村の人が何人も死にました。そこで、父母も亡くなってしまうのです。

残された8人の子供たち。

連れ子同士の結婚と貧困

連れ子同士である、おばあちゃんと4人兄弟の長男が結婚することで、家を守ることになりました。親戚同士の話し合いで、2人の血はつながっていないのだから、結婚して家を守って行けという結論に至ったそうです。

そこで、他の男兄弟は家を出て、おばあちゃんは幼い弟妹たちの母の役割をするようになりました。当時はまだ10代だったそうです。

しかし、結婚生活が始まって、数年後に、夫が徴兵され、中国で戦死してしまいます。骨もなく、撃たれるところを見たという話を戦友がしに来てくれたそうです。おばあちゃんは、「そんなの言われたって、現実味無いよね。帰って来ないから、そうかなって思うしかなかった。」そう言っていました。最初の夫との間には女の子がいましたが、早くに亡くなってしまいます。次は、夫の末弟と結婚して、家を守ることになりました。この同い年の夫婦が、後の私の祖父母です。

慣れない家事、少ない食べ物。叔母の家を頼って、食べ物をもらいに通いました。近くの農道を見て、「この道は、途方に暮れながら食べ物をもらうために歩いた道だ」そう私に話していました。

そのうちに、見かねた人が、末っ子を養子縁組に出す事を提案してきました。おばあちゃんたちは、決断し、一番幼い妹を連れて20キロ先のお家に向かって歩きました。「きっとこの子は別れるときに泣くんだろうな。幼い妹を置いてくために、連れて歩くという悲しさ、無力さ、やるせなさに胸がつぶされそうになりながら歩いた。」悔しい思いを話してくれました。

養子縁組に出した妹の家には、その後もよく通っていました。私も連れられて行ったことがありました。畑で作った野菜を届けるのです。おじいちゃんとおばあちゃんの育てた兄弟たちは、弟妹だけど親みたいなもんなんだと、ずっと慕っていました。

おじいちゃんの他の兄弟は、自分たちで自立してやっていくのにやっとだったのか、弟に押し付けたうしろめたさからなのか、疎遠になっていきました。

戦後の混沌と苦労を経て平成に至る

妹や弟は働きに出るようになって、再び女の子を授かりますが、5歳で病気で亡くなってしまいます。終戦を迎え、私の父が生まれます。やっと平和になったかなと言うとき、地震が起きて、傾きかけた家で暮らすことになりました。赤ん坊を抱いたとたんに、近くのブロック塀が崩れ落ちて、間一髪だったと言っていました。

おばあちゃんは3人男の子を生みました。子供が生まれるときは、大量に出血するから、布団を汚すといけないという事で、中身が藁の簡易的な布団を自分で作って、自宅で出産しました。出産後は、藁の布団は燃やして処分するそうです。そして、近くの織機工場で働きながら子育てをしました。

おじいちゃんは、弟妹や子供を育てるお金を作るために、いろんな事をしたそうです。具体的にわからないけど、イロイロしたと。最終的に、布の流通問屋をして会社が大きくなりましたが、最後には負債を作って倒産しました。倒産したのは末っ子が成人、就職したタイミングだそうで、なんとか耐えていたという感じだったんだと思います。兄弟や子供を育てるために頑張ていたんだと思います。

燃え上がる石油ストーブを、家を守るために素手でもって外に出したんだという武勇伝も聞きました。しかし、お酒と、キャバクラ遊びで、おばあちゃんや息子たちからのおじいちゃんへの評価は低いです。女の人からはモテるようです。晩年、病院の看護婦さんからは可愛いおじいちゃんだと評価されたことがあります。しゃべれないから、無言で目を見つめて、”ありがと”って手を合わせてお礼をしていたようです。

私の父と母は、倒産前に結婚していて、倒産直前に兄が生まれました。離婚の危機になったけど、なんだかんだと結婚は継続し、私が生まれることになりました。

そして、おじいちゃんとおばあちゃんは、家の裏に内職小屋を持って、ヤクルト配達のバイトなんかをしながら、孫育てをしました。

父は3兄弟の中で1人大学に行かせてもらえて、転職を何回かしながらもサラリーマンを務めあげて、兄弟たちと一緒に借金を完済しました。そのころに、昭和が終わり、平成となりました。

最後に

項目ごとに時間軸がバラバラで、伝わるでしょうか?自己満足ですいません。

祖父母は「あの時代には、うちみたいな話はいっぱいあったんだ。」そう言っていました。戦中戦後に生きた人々の苦労のを思うと、辛くて、今の平和がいつまで続くのかと怖くなります。

2人との思いでは、私を作っていて、大好きで、愛されていて。そして、2人の生き様は、強くて、たくましくて、悲しくて、やりきれなくて。時々、2人を思って、夜中に胸が締め付けられて泣きそうになります。そんな思いを書き記しました。

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